第9話:テーマを持つ日本史
〜古代の女性史(1)〜
 −古代の天皇たち−


 
 さて、3月になりました。もうそろそろ温かくなると思いますが、皆さんお元気でしょうか。最後の踏ん張りで受験勉強している人たちもいると思います。3月というのは、卒業式などの別れの時期ですし、先月から始めた女性史にからめていうと、女性の時期−あまりいい表現ではありませんが−でもあります。

 3月・女性というと「ひな祭り」がすぐ浮かびますが、それだけでなく、実は国際婦人デー(3月8日)のある月でもあります。
 これは、「1908〜09年にパンと参政権を要求してたちあがったアメリカの婦人のたたかいを記念して、1910年の国際社会主義婦人会議で、クララ・ツェトキンが提唱し、その後3月8日におこなわれるようになった平和と婦人解放をめざす国際的な行事」(『社会科科学辞典』)と手元にある辞書を引くと出ています。

 さて、今回は卑弥呼以後の女性について述べていくことにします。卑弥呼の後、教科書に出てくる女性というと誰になるでしょう? 少し考えてみてください。

 そう、女性の天皇です。大学入試でも、「古代の女帝」などという形で出題されたりします。7〜8世紀にかけて6人8代の女性の天皇が登場します。6人なのに何故8代なのかというと、2人の天皇が重祚 (くり返し天皇になること)しているからです。順にあげると、推古→皇極(重祚して斉明)→持統→元明→元正→孝謙(重祚して称徳)となります。

 ところで、古代と近世(江戸時代)には女性の天皇が在位しているのですが、古代でも本来は男性が天皇になるのが普通でした。現代は、女性の天皇は生まれないようになっています。というのは、「皇室典範」という天皇家・皇室に関する法律で、「皇位は皇統に属する男系の男子が、これを継承する」(同第1条)と決められているからです。

 先に述べたとおり、古代でも基本的には男性の天皇が普通でした。しかし、場合によっては女性の天皇が即位し、政治を執り行うことがありました。では、どんな時で、どんな人かというと−王位継承が男性から男性へとうまくつなげることができない、ある面では危機的な場合に女性の天皇が即位しました。しかも、その場合、前の天皇の皇后か近親者(例えば娘)が即位しました。


 順にそれぞれのケースをみていくことにしましょう。

 まず、推古天皇(まだ本当は「大王」といった方がいいのでしょうが、一応天皇と表現しておきます。)の場合。
 推古天皇は、父が欽明天皇、母が蘇我稲目の娘の間に生まれました。推古天皇の前の天皇というと、崇峻天皇という人でした。ところが、崇峻天皇は蘇我馬子と対立し、殺害されてしまいました。

 この時代、気に入らなければ、天皇であっても殺害された時代です。逆にいうと、蘇我馬子や蘇我氏(本宗家)は天皇をしのぐ力を持っていたともいえます。しかし、それ程の力を持ってしても、蘇我馬子や蘇我氏は天皇そのものにはなれません。何故なら、馬子は天皇家(大王家)に娘を嫁がせて実力を持つ豪族であり、「臣」(その中で最大の実力者を「大臣」といいます)という位を持ってはいます。

 しかし、天皇家との関係はあくまで結婚を通しての関係にすぎません。この辺のややこしさが背景にあり、また、崇峻の後の天皇候補者が全くいない状態になりました。そこで馬子は、敏達天皇の皇后(馬子からすれば姪にあたります)だった推古を天皇にし、推古の甥の聖徳太子を摂政とすることで、王位継承の危機を乗り越えたのです。いわば、このままでは蘇我氏の天下どころか、天皇家自体が危ういという時期に、前例とかそういうことを無視して推古天皇が即位したというわけです。



 次の皇極天皇の場合。
 蘇我馬子−聖徳太子−推古天皇というトロイカ体制による政治は、その後この3人が相次いで亡くなることで消滅します。ここでまたもや王位継承の問題が発生します。

 馬子の後、蘇我氏側は馬子の子蝦夷が継ぎます。しかし、肝心の天皇の座をめぐり敏達天皇の孫田村皇子と聖徳太子の子山背大兄王が対立します。この時も、蝦夷の子入鹿が、山背大兄王を襲い、自殺に追い込むという事件が起こっています。

 ともあれ、結局田村皇子が舒明天皇として即位するのですが、舒明天皇は641年に亡くなってしまいます。またもや王位継承の危機=政権の危機です。

 そこで、蘇我氏側は推古即位と同じ手を使います。舒明天皇の皇后であり、敏達天皇の孫でもあった皇極を天皇にしました。ところが、この後蘇我氏の横暴に対し、645年、大化の改新が起こりました。天皇をもしのぐ力を持ち、政治をほしいままに動かしていた蘇我氏打倒のクーデタが起こったのです。

 クーデタ終了後、皇極は甥の孝徳に譲位しました。しかし、孝徳を中心とする政権も盤石の政権とはいえませんでした。孝徳は天皇ですが、この政権の真の実力者はクーデタのリーダーだった中大兄皇子でした。孝徳と中大兄皇子とは次第に疎遠になり、都として難波長柄豊碕宮があったにもかかわらず、653年、中大兄皇子は飛鳥に戻ってしまいました。

 翌年失意の中で孝徳天皇は亡くなったといいます。中大兄皇子は、母である皇極を再度即位(重祚)させ、斉明天皇とします。斉明として即位した理由も王位継承の危機を乗り切るためだったと考えられています。



 では、690年に即位した持統天皇の場合はどうでしょうか。
 彼女の人生は非常に波乱に富んだものでした。672年に起きた壬申の乱では夫である大海人皇子(後の天武天皇)と共に飛鳥から逃げ、乱終了後即位した夫を助けます。天武天皇が亡くなると、今度は自ら天皇に即位します。

 その理由は、自分の孫である軽皇子(後の文武天皇)が即位するまでの中継ぎとして即位したのでした。しかも文武天皇が即位してからでも、よほど心配だったのでしょう。最初の太上天皇(上皇)として孫の政治をバックアップしています。



 元明天皇は、文武天皇の母でした。文武は707年急死してしまいます。そこで文武天皇の子首皇子(後の聖武天皇)を天皇にすることを前提に即位したのでした。天皇は708年、住み慣れた飛鳥の地を離れ、都を奈良(平城京)に移しました。豪族の勢力が強い飛鳥から新たな地を求めたのだとされています。

 しかし、元明天皇も715年に亡くなり、今度は文武天皇の姉が即位します。元正天皇の誕生でした。この時も首皇子への王位継承が前提とされていたのですが、まだ幼い皇子に代わって即位したのでした。





 ここで、一息入れましょう。
 長ったらしいことを書きましたが、平安時代の天皇と違うことに気づきましたか?

 平安時代には、天皇は幼い子どもでも問題ありませんでした。そう、天皇が子どもの場合は摂政が補佐する(実際は実権を握る)ことになっていました。しかし、奈良時代までは、天皇は女性であっても政治を執り行うことが必要とされていたのです。ここが平安時代と大きな相違です。


 では、奈良時代の方に話を戻しましょう。
 724年、やっと首皇子は聖武天皇として即位しました。奥さんは藤原光明子です。2人の間には皇子が生まれたのですが、その皇子は早死にしてしまいます。藤原不比等以来次第に実力を持ってきたとはいえ、まだ新興の貴族であった藤原氏は、聖武のもう一人の夫人との間に皇子が生まれたことを知って動揺します。

 付け加えておきますが、古代の場合は天皇は奥さんが1人だけなんてことはあり得ません。何人も奥さんがいたのです。光明子も何人かの奥さんの1人にしかすぎません。光明子以外の女性が生んだ皇子が次の天皇候補者に決まってしまえば、藤原氏の力は当然弱まることになります。

 そこで、藤原氏は光明子を皇后にする計画を実行しようとします。何故なら、これまでの「慣例」では、皇后は場合によれば天皇になることが可能だったからです。蘇我氏が作った慣例を今度は藤原氏が利用したのです。

 729年の長屋王の変とよばれる政争は、長屋王が従来のやり方、つまり皇族以外は皇后になれないという考えをもとに、藤原氏のたくらみを批判したことに原因があるのです。結局、長屋王は謀反の疑いで自殺に追い込まれ、藤原氏は738年、光明子を皇后にすることに成功しました。

 聖武天皇の時代はよく知られているように、政治が乱れ、都は各地に転々としています。749年、父聖武に代わり娘の阿倍内親王が即位しました。孝謙天皇でした。しかし、孝謙天皇が政治を行った期間はわずかしかありません。というのも、母の光明皇太后が元気で、藤原仲麻呂(恵美押勝)に政治を任せていたからです。

 後に仲麻呂は、自分と関係の深い淳仁天皇に譲位させ、思い通りの政治を行ったのです。孝謙は上皇として政権内には留まっていますが、実権は仲麻呂に握られていました。しかし、仲麻呂の後ろ盾であった光明皇太后が760年に亡くなり、微妙なバランスは崩れていきました。

 翌年、上皇の病を治したとされる僧道鏡と結んだ孝謙は、764年仲麻呂を倒し、称徳天皇として即位(重祚)します。しかし、称徳天皇は、770年に亡くなってしまいます。後継者については、何も決めずに亡くなったため、朝廷内は対立が生じ、ようやく光仁天皇が即位して対立は抑えられることになりました。


 これでも細かい説明をずいぶん省いて説明したつもりなのですが、ややこしい話になったと思います。女性の天皇は、つまり、王位継承の危機の中で誕生します。本当は女性の天皇の時代の政治についても詳しく説明する必要がありますが、今回はこれ位にしておきたいと思います。