第12話:テーマを持つ日本史
〜近世の女性〜


 
 
 
 梅雨に入ったようで何となくうっとうしい気分ですが、皆さん元気にしてますか?受験生の皆さんはそろそろ夏期講習の申し込みなんていう時期になりました。自分の勉強のスタイルをよくつかんで、講習だけに頼らず、勉強を続けてください。


 さて、今月は近世の女性史です。はっきり言って近世(大体、信長・秀吉が政権を握ってからその後の江戸時代全般をさします)には著名な女性は多くいません。といって、全くいないわけじゃありません。まず、教科書などに登場する女性をあげてみましょう。

 一人目は出雲の阿国。「生没年不詳」と手元にある『日本史事典』にありますから一体どんな人だったかはわかりません。出雲大社の巫女(みこ)と称していたそうで、阿国歌舞伎をはじめ、これが人気を博したといいます。今流にいえば女性ダンサーの元祖ってところでしょうか。
この阿国歌舞伎が女歌舞伎に発展したそうです。女歌舞伎とは、そうですね、近世の宝塚歌劇団ってところでしょうか。「オスカル〜!!」(ベルサイユのばら)とは言わなかったでしょうが・・。

 ところで、山川版教科書『詳説日本史』(161ページ)には欄外脚注Bに「かぶき」とは何かということと、歌舞伎の発展についての記述があります。その内容を私風に解説してみるとこうなります。歌舞伎の元の言葉は「傾く(かぶく)」という言葉で、それは人に目立つ格好をするという意味でした。そう、よくいるでしょ。夏のクソ暑い日でも革ジャンきて、頭はもちろんキン・キン。場合によってはモヒカン風のお兄ちゃんとかお姉ちゃんとかが、3〜4個のティッシュペーパーを指の間にはさんでスーットさしだす。ああいう人のことです。

 予備校で教えていたとき、こういう説明をすると、予備校のある場所が梅田近辺でしたので、生徒たちがうなづいてました。わかってもらえるでしょかね?こういう説明で。ともかく、こういう人たちを「傾いてる人」というんです。いいですか、決して「ヤンキー」とか言っちゃあいけません。「パンク」なお兄さん・お姉さんと言ってもいけません。やっぱり「傾いてる」がぴったりです。

 阿国さんがどんな格好をしていたかはわかりませんが、ともかく、その当時としたらかなり「イケテル」格好をしてたんでしょうね。そしてその「イケテル」=目立つ格好で踊ったのです。これが女歌舞伎の始まりっていうんです。1人だけで踊ったのか何人かで踊ったのかはわかりませんが、「イケテル」人たちが数人で踊ったらそりゃあもうやっぱり「タカラヅカ」でしょう。でも、お上はこういうことには非常に敏感で、禁止してしまいます。そう、「風紀上よろしくない!!」ということです。


 じゃあ、女歌舞伎がダメなら今度は若衆歌舞伎でいこうとしたんですね。若衆歌舞伎は、美少年の踊りです。皆さんはすぐ想像できますね。現代の若衆歌舞伎を。そうです。ジャニーズです。バクテンなんておちゃのこサイサイで、彼らは歌い、踊り、そして可愛い。(私は下の娘に感化されて個人的にV6、キンキ・キッズ、TOKIOが結構好きですが・・・。)しかもこの若者=美少年による歌と踊り、演劇というのは日本の伝統で、すでに室町時代に、能がありました。リバイバル、リニュ−アルです。でも、お上はこれまた禁止したのです。


 そこで、ついに成人男性の登場とあいなりました。野郎歌舞伎になったのです。オッサン歌舞伎!!これなら大丈夫ってところでしょう。歌舞伎というと、何か日本の伝統芸能のようになってしまってますが、決してそんなものじゃありません。市川猿之助さんが演じる歌舞伎というものを私は見に行ったことがありませんが、なかなかすごいものだそうです。「ハッデェー!!」らしいですよ。

 何だか女性史を離れて芸能史のようになってしまいましたが、次の女性は、江戸時代初めの女帝、明正天皇です。父は紫衣(しえ)事件の結果、譲位した後水尾天皇。母は2代将軍秀忠の娘徳川和子。天皇家と徳川家という二大勢力の結びつきの結果誕生した天皇です。

 もっとも、江戸時代にはあと1人後桜町天皇という女帝が即位しています。紫衣事件というのは、紫衣(文字通り紫の衣。僧侶の中で徳の高い人だけが着ることを許される衣です)を着ることを許す権利は朝廷にありました。そこで、後水尾天皇は、大徳寺や妙心寺の僧に紫衣を着ることを認めました。ところが、これが幕府の出した禁中並公家諸法度に違反するという横やりが入ったのです。大徳寺僧・沢庵らは直ちに幕府の「横暴」に抗議しました。幕府はここぞとばかり、沢庵らを流罪にし、幕府の方が朝廷より力があることを見せつけました。後水尾天皇はその結果、譲位してしまうのですが、その後の天皇が明正天皇でした。


 女性史といっても、1人の女性が登場する背景は非常に奥が深いことがわかっていただけたでしょうか?でも、名も無き女性にも歴史はあります。次ぎに近世(特に江戸時代を中心とした)女性を取り巻く状況のようなことを述べることにしましょう。


 近世というと、士・農・工・商という身分秩序を思い浮かべる人も多いでしょう。女性はこうした身分秩序の下でどのような生活をしていたのでしょうか?まず、儒教倫理が次第に浸透する中で、女性の地位はこれまで以上に低く見られるようになりました。

 儒教には「夫婦の別」という考え方があり、夫は子どもを作るためには妾を持つことが許されたのに、妻は(もちろん妾も)1人の男性に貞操を守るべきだとされました。結婚は男女の愛情によるものではなく、家の存続・繁栄のための手段とされたのです。といっても、財産を持たない町民や農民の世界では家の権威というものはあまり強いものではありませんでした。ですから、恋愛結婚で夫婦仲良く暮らすことの方が一般的だったのです。

 よく知られている近世の離縁状=「三行半(みくだりはん)」は、男性が女性に対し、一方的に離婚を申し渡す際、用いられていたと理解されがちですが、決してそうではありませんでした。離婚後は女性の再婚を妨げるものではない、と約束されていますから再婚の自由を認めたものだったのです。

 また、女性はいつも夫の横暴なふるまいを我慢していたという理解も間違いです。もう耐えきれなくなり、離婚したいが、夫はそれを許そうにないといった場合、縁切寺に逃げ込むという非常手段が残されていました。


  (1)みんなしていびりましたと松ケ岡
  (2)縁切りと見たで東慶寺を教へ
  (3)松ケ岡鰹も食わず三年いる
  (4)松ケ岡似たことばかり話し合ひ


 この4つの句を私が知ったのは、私が尊敬してやまない故・黒田清隆氏(元静岡大学教授)の本『生活史で学ぶ日本の歴史』(地歴社)に収録されている「『かけこみ寺』考−日本近世の一アジールについて」という文を読んでからのことです。これらの句はいずれも鎌倉にある縁切寺・東慶寺のことを詠んだものです。

 舅・姑・小姑、そしてついには自分の夫までが嫁いびりをし、ついに耐えきれなくなった妻が松ケ岡にある東慶寺まで逃げたというのが、(1)である。(2)は、東慶寺まで逃げる様を、(3)は東慶寺=縁切寺には3年いないと離縁できないことを、(4)は同じような境遇で離縁を待つ女性達の会話を描いていると言って良いでしょう。

 縁切寺は駆込寺ともいい、離婚を望む妻がこの寺に逃げ込み、ここで足かけ3年間過ごせば、否応なく離婚できることになっていました。無論、夫婦の話し合いで離婚が成立することもあったのですが、東慶寺に妻が逃げ込み、夫が離婚を拒否した場合、今記したように足かけ3年間をこの寺で過ごすと、離婚が成立することになっていました。ですから決して女性がいつもいつも虐げられていたわけではなかったのです。

 大体、農民・町民は家族みんなの協力がなければ毎日の仕事はできません。ですから、武士や一部の豪商の家を除いて、妻は夫と対等だったと考える方が普通です。夫婦仲良くなければ、そもそも日々の生活自体が成り立たなかったのです。