第26話 近代の戦争
〜庶民にとって戦争とは(2) 女性と戦争〜



 

 今回は女性と戦争ということを考えたいと思います。女性や次回扱う予定でいる子どもは本来戦争とは一番遠い関係にあるはずです。しかし、総力戦とよばれる近代の戦争は一見すると関係のない人たちまで身ぐるみ動員し、戦争の渦の中に巻き込んでしまいます。つまり、直接戦闘に参加する兵士だけの戦いではなくて銃後の人たちを戦争に協力させる体制を作っていくのです。

 でなければ、例えばナチス政権下のドイツがあれ程までにユダヤ人に対する殺戮ができるわけはありません。ヒトラーと彼の配下にいるものだけの意志でユダヤ人差別や大量虐殺ができたと到底考えることはできません。確かにヒトラーたちはユダヤ人を敵視し、その排除を命じました。それも映画やラジオ放送など当時とすれば最も進んだ手段を使ってそのことを伝えたのですが、その命令にせよ訴えにせよを受け取り「共感」する人々がいたからこそ実施し得たのです。その場合、年齢や性別は問いません。まさに全国民的な「共感」が必要であり、その「支持」のもとでユダヤ人に対する大量虐殺をはじめとする事々がスムーズにできたのです。

 同様のことは日本でも起こっていました。中国人を「ちゃんころ」とよび、朝鮮人支配を当たり前と考えるといった風にです。また、戦前「満州国」とよんだ現在の中国東北部に日本国内では生活しづらくなった人々が「満蒙開拓」の名の下に渡っていきますが、この人達が開拓したり、畑にした土地は元々中国東北部の人たちの土地であったことに気づいた人は一体何人いたでしょうか?「満州」は事実上日本の属国であり、朝鮮を植民地とすることに疑いを持っていた人は極めて少なかったのです。その「少数派」ですら、治安維持法などの「法律」によって排除されたのです。

 では、女性はどのように戦争政策に参加・動員されていったのでしょう。この場合、ある種の「自主性」というか「能動性」が期待され、それを利用するという仕組みが必要となります。そうした状況がいつ芽生えていったかは正確にはわかりませんが、ひとつの画期(ターニングポイント)になったのはおそらく1931年9月の「満州事変」だと考えてよさそうです。「満州事変」の開始によって戦争に熱狂する女性たちも現れてきます。例えば慰問袋・慰問文・献金が軍や新聞社、各市町村役場に寄せられたのですが、小学生・女学生・主婦が持ち込むことが多かったと言います。

 何故女性は戦争に熱狂していったのでしょうか。それは様々な「美談」が新聞などを通じて掲載・報道され、これを読んだ人々が次第に熱狂していったと考えられます。この点については当時の新聞報道がいかに国民を熱狂させたかに関する研究がなされています。私も時期が少し後の日中戦争開始時の新聞が美談を作り、どのように民衆を動員していったかを調べたことがありますが、まさに連日の「美談」オンパレードでした。戦死者を英雄にし、それを「美談」にすることで国民を戦争に巻き込む「手口」は、近代の戦争を遂行する国家の常套手段でマスコミの責任は大きいと言うべきでしょう。「生命線満蒙を守れ」「暴戻支那」といった言葉と共に、作られた「美談」で戦争に釘付けにしたのです。「美談」の作成→読む→自分で何かをしたい→慰問文・慰問袋・献金という仕組みで、「自発性」が喚起され実行に移していったのです。

 さらに、こうした女性の「自発性」を利用する受け皿が、これもまた女性によって準備されていきました。国家はこれを援助する形でより多くの女性の熱狂を導き出すことに成功しました。その受け皿とは国防婦人会のことです。元々は大阪市に住む主婦が出征兵士の見送り、遺族の慰問を思いつき活動をしたことに端を発します。やがて彼女は近くの友人を誘い、大阪駅から旅立つ出征兵士に湯茶の接待をしたり傷病兵の慰問をするようになりました。

 こうした女性たちの活動に目をつけたのが当時大阪憲兵隊の課長だった碓井中尉でした。そして彼の紹介で軍事援護の女性団体が結成されることになりました。1932年12月、大日本国防婦人会の発足がそれです。女性による「自主性」がものの見事に軍部に利用されたのです。すでに同様の団体としては愛国婦人会という団体があったのですが、こちらは上流階級の女性が中心であったことから国防婦人会とは一線を画していました。しかも、国防婦人会の方はすべての女性をターゲットにした幅広い活動をしたことなどから女性への浸透は早かったようです。


 こうした動きと前後しますが、1930年文部省は「家庭教育振興ニ関スル訓令」を出しました。訓令では教育を学校に一任することをやめ家庭での教育を重視し、特に母親が責任を持って家庭で国体観念を説くように指示しました。訓令がどれほどの効果をあげたかは不明ですが、政府が母親の役割を重視したことは注目すべきでしょう。つまり、母を通じて戦争に協力する子どもを育てる方針が示されているのですから。

 次に、1937年からはじまった国民精神総動員運動と女性についてみましょう。国民精神総動員運動は文字通り国民を戦争に協力させるための運動で、女性も当然その対象になりました。
 特に同年11月9日、東京日比谷公会堂で約3000人の女性を集めて開かれた講演会では、
  (1)兵士への感謝と遺家族への慰問
  (2)消費経済の合理化を図る
  (3)子どもの養育への努力   が申し合わせられました。
講演会に参加した人たちはおそらく各種女性団体のリーダー層であったと考えられますが、彼女たちが集められたことはこれまでにない意義を持っているのです。

 というのも、従来女性団体のリーダーは国の重要な決定に関与できずいわば無視された状態だったはずです。ところが今度は女性たちを巻き込み協力を訴えたからです。そうするとリーダーたちは、自分たちの活動がやっと政府によって認められたと考え、国策に協力する姿勢を明らかにしていきます。ここでも、先程の例とは逆ですが、政府による訴え→理解→「自発性」の喚起→協力・推進という方向を見出すことができるでしょう。

 しかも、戦争が長引き男性が次々と兵士になっていくとあらゆる産業で労働力不足が深刻になっていきます。こうなると女性の労働力に期待が高まっていきますし、現実に「銃後の勤労戦士」として女性は働きはじめました。物言わず夫・父の言うことを聞いていれば良いという状態ではなくなったのです。

 アジア太平洋戦争がはじまる直前、国民勤労報国令が出され、14歳以上25歳未満の女性は年間30日、勤労動員を無報酬で義務づけられました。1943年には労務調整法が改正され、女性ができる職業に男性が就かないように制限が加えられました。こうなると女性は家にいるもんだとは言えなくなっていきます。「自発性」の喚起どころではなく、嫌でも働いてもらわないと困るという状況になっていきました。

 そして最後は、女性に最も期待されたことは次の世代を作ること、すなわち「生めよ殖やせよ」ということになります。1941年、「人口政策確立要綱」が出され、戦争継続のためには次の世代の兵士を、労働力不足を補うためにも、子どもを生めという極限の政策が出されたのでした。こうなると女性はまるで子どもを生むためのマシンでしかありません。私は戦前の厚生省の社会福祉政策を調べてわかったのですが、子どもを生めと言いながら、実際にはそのための努力なぞ全くしていなかったのです。


 さて、今述べたことからどういうことが言えるでしょうか。確かに現在のように少なくとも民主主義が例えそれが建前でしかなくても、要求され、実現をせまられる社会・時代でなかったことを考えに入れても、私たちはなにがしかの情報を受け取り、それによって戦争に動員されたり、協力したりするのだということが教訓というか、経験としてあげられると思います。その際、よくだまされていたのだと言い、誤った情報を流した責任を追及することがなされます。誤った情報を流した新聞社や各種のマスコミの責任は大きいことは十分に認めます。問題にしないといけないのはそこから先のことです。

 できれば、加藤周一さんの『戦後世代の戦争責任』というブックレットをお読みいただくといいのですが、加藤さんは現在にも続いている戦争に関わる社会的・文化的条件を明らかにされ、メディアを通じての大衆操作(世論操作)に私たちは弱いことをあげておられます。そして自分の頭脳で考えずに大勢順応型で、今ここで問題にしている戦争への動員・協力のキャンペーンがなされるとそれにいとも簡単に順応してしまうと述べておられます。

 こうなると次には「自発性の喚起」が待ち受けています。それすら先に見たようにキャンペーンとしてマスコミが大々的に取り上げると、国防婦人会に入らないことが「非国民」となり、ついには…ということになってしまいます。戦争が終了し、自らが積極的に行ったことを私たちの先輩はどれだけ自省的にとらえたのでしょうか。あの時代だから仕方がなかったのだと「水に流し」、日常生活の慌ただしさの中で忘れてしまったのではないでしょうか。意図的な沈黙もありました。時折、自省的な発言をする人がいればそれを排除しようとする人もたくさんいたはずです。それは女性運動家の中にも存在したと思います。

 もう一度加藤さんの本に立ち返ると、与えられた情報に批判的になること、そして情報を鵜呑みにせず、対処することが必要だという、いわば当たり前のことが要求されているようです。距離的には戦争に最も遠いはずの女性や子どもの場合は、逆に遠いが故に「純粋」で、情報操作に乗りやすく、信じ込みやすく、のめり込み、被害を受けることが大きかったと考えられます。