第32話 生活文化史(4)
近世の生活


 

 4月末から5月の連休にかけてベトナムに行ってきました。今回は調査でも障害児教育・福祉セミナーでもなく、ベトナムの先生たちに授業をしに行ってきました。現地の障害児教員養成の一環で、JICA(国際協力事業団)からの援助を立命館大学が受けたことで、私にもお声がかかったからです。4月28日から5月3日まで、途中休日をはさんで私と滋賀大学教育学部の黒田学先生と交代で先生たちに「社会福祉基礎」の授業をしてきました。

 しかし、SARS(急性肺炎)騒ぎは相当なものですネ。私たちは4月26日に関西空港を出発したのですが、空港内は閑古鳥が鳴いてました。連休なのにガラ〜ンとした空港も初めてなら、ベトナム行きの飛行機の乗客が20人程度という状態でした。おかげで広々とした室内で、何度も飲み物が配られて得した気分でしたケド。

 私たちはホーチミン市内で授業をしたのですが、ホーチミン市内も日本人がほとんどいませんでした。普段ならここは難波か?それともアメ村か?と思うほど日本人がいて、「きゃ〜可愛い」とか「安い〜!!」(ちっとも安ないやろ〜!!何考えてんネン)と日本人観光客に突っ込みながら歩くデパートも欧米の人たちと韓国からの人たちがいるだけで、静まりかえってました。

 ベトナムは、4月30日の解放記念日にはWHOがSARSの鎮圧を認めましたから、もう大丈夫なんですが、帰りも50人ほどの人たちしかおらず、普段ならジャンボ・ジェットなのに、ベトナム国内を飛んでるエアバス機で、これまたびっくり。「え〜!!こんなんで帰れるの?ヒエ〜!!大丈夫かぁ〜」の状態でした。案の定、積乱雲の中を飛ばなくてはいけなかったようで、機体は揺れる揺れる。やっと関西空港に帰ってきたと思いきや、今度は入国審査の際、担当の兄ちゃんに、「ベトナムばっかり行かれてますが、何かあるんですか?」と言われる始末。(「どう〜せベトナムしか行ってませんよ〜。」だから何やネン。仕事で行ってるんじゃ。しかも今回は授業しに行ったんじゃ。麻薬とか変なモン買いに行ってると違うワイ)と思いつつ無視しながら通過してのでした。

 しかし、確かに3月に行って、4月末〜5月じゃ変に思われる可能性あるわなぁ〜。1週間くらいだからワーキングビザなんてたいそうなものにしてないし、と後から考えれば冷静になれるんですが、その時ははっきり言って「逆ギレ」状態でした。兄ちゃん、わしら仕事やねんで!!一年のうちにベトナムに何回も行ってわるかったなぁ〜!!しかもあんたらの関係する機関の仕事でもあんねんで!!人見て話し〜や〜!!と思ったのでした。8月にもいくじゃ〜!!その時あんた見たらシメたるし!!


 さて、長い能書きはこれくらいにして生活文化史の第4回、近世編を始めましょう。


 戦国時代を経て、豊臣秀吉が太閤検地を行い、刀狩令・身分統制令を発令すると、身分は固定され、農民をはじめとする人々の自由さは奪われてしまったといって良いでしょう。まず、江戸時代の村の生活から述べていきましょう。そもそも村は江戸時代どれくらいあったのでしょうか。おおよその数は江戸幕府が作成した『郷帳』によると6万〜7万とされています。もちろん、この中には農村だけではなく、山村や漁村が含まれています。

 江戸幕府と諸藩は、秀吉以来石高によって収入を換算する社会体制を築きましたから、農村・農民の統制についてはかなり厳しい統制を加えました。村は中世以来、農民の共同体・自治組織としての性格を有していたのですが、幕藩領主は、代官を通じて村を行政の末端として編成し、支配・統治にあたりました。

 村には名主(なぬし)(関西では庄屋・東北では肝煎とも言います)・組頭・百姓代という村方三役(地方三役)が置かれ、村政が運営されました。名主は、村の草分け(創設以来の)百姓か旧家の世襲か有力農民による交代が多く、年貢の割当・上納・五人組改めなどの帳簿作成、用水管理などを行い一般農民を指揮しました。組頭は名主を補佐するもので、有力農民の中から選ばれました。百姓代は一般農民の代表として名主や組頭を監視する役で、その成立は、一般農民の権利意識が高まった近世中期以降のことだったと考えられています。

 年貢や諸役は農民個人別ではなく、一括して村に賦課され、村の責任で上納される村請制がとられました。その下部組織として農民を5軒ずつ編成する五人組が強制されました。もともと五人組の原型は。古代以来の五保の制に求められると考えられています。しかし、直接の起源は、1597年侍に五人組、下人に十人組を作らせたことにあるとされています。江戸幕府は1630〜40年代に全国的規模で制度化したようです。その政策的意図は、キリシタン禁圧・牢人取締りなどの警察的機能を果たさせることにあり、相互監視によってキリシタンや犯罪の防止・密告が期待されました。後には最小の共同体として連帯責任が負わされ、組内に犯罪者が出れば、刑罰が全体に及ぶ連坐制が適用されました。

 ところで、一口に農村といっても関東と関西では違いがある。新幹線に乗って大阪や京都から東京に向かって行くとわかるのですが、名古屋を過ぎた頃から車窓から見える農村の風景が変化することがわかるはずです。関西の農村は家々が集まっているのですが、垣根はあっても低く、開放的で、屋敷内には色々な建物があってゆとりがありません。

 しかし、東海から関東の農村は、屋敷のまわりに屋敷林や生け垣・塀などがあり、屋敷の敷地は広く、住宅として使用できそうな家は1棟だけではなく大抵2棟以上あります。1つは母屋であり、もう1つは離れとよばれる建物で、ここには老人夫婦が住んでいることが多いのです。

 また、敷地内に畑があります。農作業も敷地内でかなりの程度できるのに比べ、関西の農家はスペースが狭くそんな余裕はありません。これは、農業のやり方やその他様々な面で相違があることが原因していると考えられます。だから農村という一律的な見方をいけないのです。逆に共通するものあります。どの地方の農家にも囲炉裏があったが、囲炉裏は暖炉ではありません。冬だけ使われるのではなくて、1年中火が燃やされているのです。食べ物の煮炊きや夜の照明、物の乾燥などの機能を複合的に持っていたのです。

 農村に限らず、どの村にも年齢別・性別の自治組織がありました。子どもたちの集団、青年男子の集団=若者組、娘たちの集団=娘組、老人たちの組織=年寄組です。特に若者組は村の労働組織として領主が命令された人足をはじめ、村の共同労働の人足としても働きました。また、祭礼などでも活躍し、神輿をかつぎ、山車を曳きました。

 さらに、村の労働秩序の管理も行っています。村では祭礼をはじめ年間30日程度の休み日がありました。これを管理したのが、若者組です。休み日であるのに野良仕事をしている人を取り締まったりしたのです。但し、くり返しのべているように、若者組の構成員も関西では15歳以上結婚するまでで、関東では15歳以上は同じですが、結婚しても35歳か42歳位までそのまま組にいたようです。

 村には山村も漁村もありますが、それらの史料を読みこんでいないので、村の生活はこれくらいにして都市部の生活についてみておくことにします。江戸時代の都市としては各藩に城下町があります。城を中心に同心円上に発達した都市で、武家屋敷・侍町が中心部にあり、周辺に商人町・職人町が形成される。その外側に寺院があることが多かったようです。

さらに、侍町・商人町・職人町の内部はそれぞれの身分や職業の区別によって細分化されていました。例えば、御徒町・同心町・数寄屋町(侍町)や、材木町・伝馬町・茶屋町・呉服町(商人町)、鍛冶町・紺屋町・大工町(職人町)といったようにです。しかし、都市の景観はさほど変化していません。江戸初期の町の家の屋根はほとんど草葺きか板葺きで火災を避けるために草屋根に土を塗ったり、板屋根に貝殻をおいたりした程度でした。やがて富を蓄えた商人たちが、瓦葺き・土蔵造りの家や2階建ての家を建て始めます。

 服装については、町人の場合、普段着としての小袖・着流しが広まり、女性だけでなく男性にも一般化しました。女性の服装は元禄期頃から変化します。小袖がそで・すそが長く大きくなり、帯も長く幅広くなり、後ろで結ぶことが多くなりました。振り袖の出現はその著しい例です。生地も緞子・羽二重・縮緬といった高級品が人気を集めました。農民は、筒袖と股引からなるツーピース型の衣服をつけ仕事本位の服装を守ったようです。

 食生活は1日3食が一般化し、都市における白米食の普及が著しかったのですが、一般民衆の間では、麦飯や雑穀食が維持されていました。冷めてしまえば食べられない稗飯・糠飯の類も農村ではさほど珍しくなかったようです。町人の家では奉公人の食事は質素で、主人は白米でも徒弟・丁稚は麦飯が普通で、おかずも味噌汁・油揚げ・ひじきの煮付け・漬け物といった程度で1日分とされるのが普通で、魚などは1カ月に2〜3回でした。

 こうした中でも新しい食生活を暗示するようなものがあらわれてきます。その一つは、粉食の食品をたやすく作れるようになったことであり、もう一つは、外で物を食べる習慣が生まれてきたことです。粉食は、一人でつける石臼やすり鉢が商品化されたことで、そば粉・豆粉・はったい粉・麦粉(うどん粉)・米粉が容易に作られるようになり、粉を練ったり蒸したりした物が主食として供給されるという現象を生みました。これを売る商人が生まれ、茶店・煮売り屋が飯・団子・そば・うどんなどの手軽な食べ物を提供するようになりました。