第11話:テーマを持つ日本史
〜中世の女性〜
−将軍の妻と庶民の女性たち−


 
 
 5月、新緑の季節になりました。みなさんその後元気に過ごしてますか? 私の方はといいますと、先月、大学が始まり、バタバタしてたらあっという間に5月になってしまった、というのが率直な感想です。でも忙しいからといってこのコーナーをサボることはできません。


 さて、今回は中世の女性を取り上げましょう。まず、この当時の武士の結婚について説明しましょう。古代の貴族の結婚とは随分違います。少しだけ説明すると、嫁入り婚というものに変わっています。もともと武士は荘園の管理者(荘官といいます。地頭も荘官の1種です。)として各地にバラバラで住んでいました。こういう条件の下では古代貴族のように妻問いをすることは難しいわけです。

 また、武士はご存じのように戦闘を仕事にしています。しかも戦いに勝つためには家族の結束が必要です。そこで「家」というものの存在がこれまで以上に重要視されてきます。つまり、家柄とかいったことです。

 しかし、今述べたように武士は、各地に散らばって住んでいました。自分の「家」と同等の家柄の女性と結婚することが大切だと考えられるようになったのです。しかし、そう簡単に同等の家柄の女性はいません。遠くからふさわしい女性を探してこなくてはならなくなりました。

 こうなると、男中心の世界である武士社会では女性が男の(つまり結婚相手の男性の)家に嫁ぐということにならざるを得なくなったということなのです。但し、だからといって女性の地位が一挙に低くなってしまったわけではありません。妻の相続権や子どもに対する母の権利は認められていました。



 中世の女性の中でまず、教科書などに登場するのは鎌倉幕府将軍・源頼朝の妻、北条政子です。頼朝が平治の乱後、伊豆に配流された時に知り合い結婚したようです。

 彼女には2つの顔がありました。1つは将軍の正妻=「御台所」(注意!おだいどころとは読みません。みだいどころ、と読みます)という側面です。将軍である頼朝を支え、子どもたちを育てる妻・母としての側面です。といっても、頼朝には何人ものお妾さんがいたようです。いちいちダンナの素行の悪さに腹を立てても仕方がないとはいうものの、政子は場合によっては御家人を使いそのお妾さんの家をたたき壊すよう命令したといいます。(頼朝にとればなかなか怖い奥さんだったのです。)

 政子のもう1つの顔とは、「尼将軍」としての顔です。1199年、頼朝は落馬が原因して亡くなるというある種ブサイクな死に方をします。頼朝の死後、政子は髪を剃り尼の姿になりました。そして頼朝亡き後2人の息子(頼家・実朝)の後見人として政治にくわわりました。頼家は父と同じ独断的な政治を行うのですが、政子はそれを許さず、ついには息子との関係を断つまでに至っています。次の実朝が暗殺された後は、事実上の将軍として政治を執り行うまでになりました。特に、1221年の承久の乱では御家人たちを前に演説をし、御家人の結束を強めたことが知られています。私などは北条政子というと、この演説のシーンを思い浮かべてしまい、なかなかすごい「おばちゃん」やと思ってしまうのです。


 次に将軍の妻として登場するのは、日野富子。室町幕府第8代将軍足利義政の奥さん。彼女は北条政子と違いかなり低い評価がされているような気がしてなりません。しかし、彼女がこういう評価をされなければならなくなった原因は、そもそもダンナである義政が頼りなかったということにあると私には思えてなりません。

 大体、義政は慈照寺銀閣を造営したという人ですから、芸術的センスはある。しかし、それ以外は全く無能という人でした。政治を省みず、慈照寺を造営することに「うつつ」を抜かしていた、といったら言い過ぎでしょうか?まあ〜現代でもつい最近まで、大変な時にゴルフをやり続けていた首相がいたのですからあまり変わりませんが…。しかも銀閣造営には莫大な費用がいる。将軍だからそういうわがままができたのでしょうが、でも肝心の政治は全くほったらかし。

 加えて1467年から始まる応仁の乱の原因まで作ってしまいました。義政と富子の間には長い間子どもができず、義政は、弟の義視を後継者に選んだのですが、それからしばらくして富子は義尚を生みました。将軍後継者が2人いるという大変な事態になってしまったのです。ここで突っ込み。「大体自分の嫁ハンが妊娠してることもわからんかったかい?!」といいたくなるようなモンです。

 後継者が2人もいることでついに幕府も東軍西軍に分裂。京都の町はダラダラ続く合戦の結果ほぼ焼失したのです。富子は何とか息子義尚を将軍にしようと必死になり、政治にも関与し京都にある7つの関所に課税するなど、政治の私物化を図ったと批判されてしまうのですが、なんといったって、ダンナがどうしようもないノータリンの浪費家ですから、こうでもしないと仕方がなかったのじゃないでしょうか。「母は強し」です。


 一方、今あげた2人の女性とは違い、庶民の女性はどんな生活をしていたのでしょうか?「一遍上人絵巻」など絵巻物にはたくさんの女性が描かれ、一生懸命に働いていたことがわかります。

 「病草紙」という絵巻物には鎌倉時代の高利貸業者である借上(鎌倉時代のサラ金をやってたおばちゃんをイメージしてください)が描かれていて、金貸しでもうけていい食生活をし、太りすぎたおばちゃんが歩くのもめんどくさそうにしているシーンがあります。しかも首からネックレスがわりにお金をひもで通してぶら下げているのですからこの絵はなかなかすごい絵だと思います。いいものを食べると太るんだというごく当たり前のことなのですが、「病草紙」とあるように、太りすぎは中世から「病気」だった?!。

 さらに、室町時代に入ると販女と総称される女性の行商人たちが登場します。
 山川出版の『詳説日本史』という高校日本史教科書にはこのうち桂女が掲載されているはずです。頭に平たい桶のようなものを乗せ、その中に鮎を入れて売り歩く女性なのですが、その鮎がどう見てもバナナのように見えてしまう、何とも楽しい絵です。予備校の講師をしてた時、「この女の人が桶に入れているものは何か」と質問したらある生徒が「バナナ」と真顔で答えてくれて一同爆笑ということがあり、それ以来私は秘かに「バナナ売りのおばちゃん」と言っているのですが…。ともかく、彼女たちは、桂川の鵜飼いのダンナさんがとった鮎を京都に売りに行く女性でした。今の桂川ではとても鮎なんてとれないでしょうが中世では水がきれいだったんでしょうね。

 この他、京都大原には薪や炭を頭に乗せて行商する大原女という女性たちもいたのです。いずれも女性たちは男性と同等にあるいはそれ以上に働いていたのです。

 そういえば昨年このコーナーでも報告したベトナム・ホーチミン市の女性(お母さん)たちも一生懸命働いてました。男どもが木陰で昼寝をしている時にも、女性たちは働いている光景を見て、男である私は、「一体男どもは何しとんねん?」と思ったものです。

 こういうふうに、結婚の仕方は嫁取り婚に変化があった中世でしたが、上は将軍の奥さんから下は庶民の女性まで、まだまだ頑張って仕事をしていたのです。

 ちなみに女性の地位が未ださほど低くなっていなかったことを例えば教科書で見ようとすれば、先程紹介した山川出版社の『詳説日本史』には鎌倉時代地頭に女性がなったことを示す「下文」の写真が掲載されています。説明によると、下野国寒河郡と阿志度郷の地頭に小山朝光の母が就任したとあります。ですから女性も荘官になって仕切っていたのです。

 あるいはかつてセンター試験で狂言の「鎌腹」を史料に、中世の庶民の女性の地位がどのようなものだったかを問う問題も出題されています。なんだかんだと遊んでばかりいるダンナに腹を立てた奥さんにしかられたダンナが鎌で自殺しようとするが果たせなかったというおもしろいお話です。

 一度教科書を読んだり、実際に問題を解いてください。センター試験の問題などはなかなかオシャレですぐれた問題だと私は思っています。