第20話 戦争の歴史(1)
〜 古代の戦争 〜



 

 政治家の相次ぐ金権スキャンダルが連日報道されている中で,今大変な法律が制定されようとしています。「有事法制」とよばれる一連の法律がそれです。日本が 「有事」=戦争 に巻き込まれたらどうするか,どう対応するか,という法律です。

 この法律は「備えあれば憂いなし」という法律ではありません。そもそも戦争をしないためにはどうするのか,ということを考えずに戦争になったらどうるのか?と考えるのはどうもおかしいと私には思えます。そんなことを考えていたら,今回から数回取り扱う予定でいるテーマが浮かびました。

 このコーナーを含めて「もりかど」を作成して下さっている私の友人からは「学校5日制でどうなったか?というようなことを取り上げて下さいませんか」という依頼を受けたのですが,どうしようかあれこれ考えている間に現実の方が急に進んできたように思われ,こういうテーマで日本史を考えることにしました。とはいえ,現実に影響されたからといって時事評論のようなことは私にはできません。あくまでも日本史に沿って考えてみたいと思います。


 さて,日本史に限らず人類の歴史の中で戦争は一体いつから始まったのでしょうか?例えば古代ローマではすでに都市国家同士の戦いが行われていましたし,古代中国でも相次ぐ内乱に苦悩していたことは良く知られています。現在の戦争は「冷戦」というイデオロギーに基づく対立が「崩壊」した後(と言っても大国エゴ丸出しの国際関係は依然として続いているように思われるのですが),宗教や民族の相違による戦争(地域紛争)が頻発しています。翻って日本近代史の場合,ある面では戦争の歴史と言い換えてもいいような気がします。


 この問題=戦争の歴史 を扱う際の私の立場は,ちまたで流布されている「戦争肯定論」(自由主義史観)のそれとは異なります。細かな論証をすることは避けますが,簡単に言って彼らの論調は,史実に基づかない歴史の解釈だと私は考えています。もちろん,彼らのような歴史の解釈が許されるとしても,ではあなたは戦争に行き,人を殺すことができるのでしょうか。しかも彼らは真っ先に戦場に飛び込み「敵」と戦い,「潔く」死ぬ覚悟があるのでしょうか。大体,戦争を肯定する人たちの多くは,実際の戦場に飛び込む必要がなく,後方から戦いの状況を見ているだけという人が多いのです。

 私はと言えば,私にはできない=したくない(兵士となって戦いたくない)という一点で,私は戦争に対して批判的にならざるを得ません。非常に単純に言えば,私は人を殺すことが戦争であるなしにかかわらず嫌です。国のためと言ってどれ程つらいめをしてきた人たちがいるかを知るにつれ,私は最終的に戦争を肯定する気にはなりません。

 私はこうした私の考えを皆さん方に押しつけようと思ってこのテーマを選んだわけではなりません。ただ,もし戦争を肯定する人がいるとして,それならあなたは戦争のために死ぬことは怖くないし,何の罪もない他人を殺すことが平気なのか,聞いてみたいだけです。そういう点では私の立場というのは,積極的臆病者=弱虫の立場といえるでしょう。



(1)古代の戦争

 さて,とりあえず日本史の中で戦争はいつから始まったのかを考えることにしましょう。いつの頃からだと皆さんは考えますか?答えは,階級社会が発生した弥生時代からです。もちろんそれは,私たちが普通考える戦争=対外戦争ではなく,内乱とよぶべきものでした。各地に小国が分立し,小国同士の対立や抗争がくり返されました。2世紀後半の「倭国大乱」とはまさにそういう状況だったのでしょう。山口県の土井ケ浜遺跡には210余りの弥生人の人骨があるそうですが,その中には矢を受けて死んだと思われる人骨があります。人骨の中に石鏃(石の鏃)がそのまま残ったものがあるのです。

 その後,武器の発達は一挙に進みました。最初は工具・実用具として使用されていた鉄は,人を殺傷する刀剣にも利用されるようになりました。内乱は何度もくり返され,「蝦夷」(エミシ)とよばれた東北地方の民衆を服属させ,古代最大の内乱と言われる壬申の乱もおこりました。
 内乱だけでなく,対外戦争もおこりました。白村江の戦いがそれです。高句麗征討に失敗した唐は,朝鮮半島での勢力拡大のために新羅との関係を強化し始めました。このため冊封体制(中国皇帝が周辺諸国の君主に「○○国王」などの称号を与え,周辺諸国の君主は中国皇帝の支配下に入ると同時に朝貢するという関係)の中で,新羅王の地位は百済よりも一段高いものとなりました。

 百済はこれをよしとせず,日本と同盟関係を強化し,勢力を立て直そうとします。しかし,660年,唐・新羅連合軍は百済を攻め,首都を攻め落としました。日本にとって百済の敗北は大きな意味を持ちます。というのも,日本はすでに朝鮮半島の根拠地である加羅(伽耶)地方を失っており,百済を足がかりにして半島の根拠地を再興する計画が実現不可能になるからです。

 斉明天皇は,661年軍勢を九州に集めますが,九州で死去してしまいます,残った政権の代表者である中大兄皇子は,全力をあげて百済回復の大軍を送りました。阿倍比羅夫らをリーダーとする2万7000の軍が送られ,唐・新羅連合軍と戦いました。戦場は北緯38度線近くの白村江でした。戦いは2日間でしたが,激戦だったようで,中国の記録『旧唐書』には,「(倭の)舟400隻を焼く。煙は天にみなぎり,海水みな赤し」とあり,『日本書紀』には「みいくさ敗れぬ。水に赴きて溺れ死ぬる者多し」と記されています。この白村江の戦い以降,日本の対外政策は根本的に転換することになりました。

 平安時代に入ると日本の外交政策はこれまで以上に「孤立的」なものになって行きます。907年,唐が滅亡し,中国は五代十国の分裂抗争の時代を経て,960年,宋が中国統一を行いました。朝鮮では新羅が滅び,高麗が成立するという状況だったのですが,日本は894年,遣唐使派遣を中止しており,中国を中心とする東アジア情勢とはいわば「無縁」の立場にありました。

 そんな時1019年,沿岸州地方の刀伊(女真族)が突然,対馬・壱岐さらに九州沿岸を襲撃しました。刀伊とは朝鮮語で異民族をさす言葉だそうですが,彼らは朝鮮半島の東海岸を荒らし,余勢をかって南下して九州沿岸を襲ったそうです。この時,藤原隆家の指揮のもとで地元の武士団が奮戦し,撃退したものの,死者300数十人,拉致されたもの1200数十人という被害が出たそうです。後に拉致された者のうち300人余りは高麗で保護され,帰国できたと言います。