第23話 中世から近世の戦争史



 

毎日暑い日が続きますが、夏バテなどしていませんか?今とても暑い部屋でこの原稿を書いています。何しろ私の部屋といえば、クーラーなどという文明の利器がなく、西日が射し込むという最悪の条件なのです。暑い時には汗をかいて勉強するというのも、一つの方法ですが、しかし、暑いですね。

 ところで、前回は時代ごとのお話を中断して今一度戦争についての考えを記しました。今国会ではどうやら有事法制が通りそうにないようですが、継続審議か何かに持ち込もうとする動きです。しかし、有事法制もそうですが、医療改革も私たちには大変こたえます。社会福祉の基礎構造改革の時もそうでした。医療改革も同様です。金は出さない、貧乏人は早めに死んでくれた方が国としては楽だ、などといういうような政策・法案通過はもういい加減にして欲しいと思います。これが小泉改革の実態ではないでしょうか?一頃はインターネットのホームページでも大人気の小泉さんだったようですが、最近は・・・?

 なんて愚痴っていても仕方がありません。民主主義国家なのですから、誤った政治を生み出してしまうのも国民ですし、誤った政治を正すのも国民です。そこをじっくりと考えに入れておきましょう。


 さて、長い「はしがき」ついでにもう一つ。8月です。何を今更?何が言いたいねん?とお思いの方も多いでしょうが、57年前の8月に日本は敗戦を迎えました。みなさん方の近くで「戦争展」なんていうのやっていませんか?暑くて外に出るのも嫌かもしれませんが、お近くで「戦争展」の催しをやっていたら是非行ってみてください。

 大阪は大阪国際平和センター(ピース大阪)が環状線森ノ宮駅下車5分くらいのところにあります。6月に近くに行くことがあり行ってきました。大阪大空襲の展示が常設でなされていて、小学生たちが見学にきていました。京都には立命館大学(衣笠学舎)の近くに立命館国際平和ミュージアムがあります。よく会議などで使用させてもらったり、ベトナムに関する写真展なども催されて行きます。私はどちらかというと、立命の国際平和ミュージアムの方が展示の仕方や見学のしやすさからピース大阪よりすぐれているという感じがします。

 というのも、見学に行くと展示の説明のボランティアの方が丁寧に説明をしてくださるからです。修学旅行の中・高生がたくさんきていました。このコーナーを読んでくださっている方の大半は大阪・京都近辺にお住まいの人だと思います。一度行かれては如何でしょう?これ以外に私はこの3月に行ったベトナムホーチミン市の戦争証跡博物館にもう少ししたら行く予定です。夏休みにもしベトナムに行かれる予定の方がいらっしゃたら、雑貨の買い物とアオザイ作りだけでなく、是非旧大統領官邸とこの博物館は行ってみてください。


 ようやく、中世から近世の戦争史にたどりつきました。まず、中世の対外戦争といえば何と言っても元寇です。巨大な帝国を作り上げた元は、金の産出量の多さに目を付け攻撃をかけてきました。もちろん、金だけでなく日本と関係があった当時の中国王朝・宋を抑えるためにも、日本を支配下に入れ、宋を孤立させようと考えたに違いありません。元による服属要求はくり返しなされたのですが、時の執権北条時宗はこれを無視し、九州の防備を固めるよう西国の御家人に命じました。

 1274年、ついにフビライは高麗に大小艦船900隻の建造を命じ。あわせて人夫3万5000人、食糧3万4000石をはじめとする木材・工人・道具の調達うぃ行って遠征準備に入りました。遠征軍の構成は屯田兵軍5000人、新混成軍(モンゴル・女真族など)1万5000人、高麗軍6000人、乗組員1万5000人とされています。

 これからもわかるように全くもっての他民族構成軍でした。同年10月、南朝鮮の合浦を出発した遠征軍は、壱岐・対馬を占領し、平戸から博多湾岸を襲い、湾内約20qに展開して上陸作戦を展開しました。この時元軍は、高見に登った大将が打つ逃げ鼓や責め鼓に従い、集団戦法を展開しました。

 これに対し武士たちは相互に名乗りあっての一騎打ち戦法を行います。ここで私はいつも思います。「そもそも言葉の通じない外国人に自分の名前を名乗ってどないすんねん!!」「しかも、集団で戦ってるのに、一騎打ちとは何事じゃ〜!!」と。しかも例の「蒙古襲来絵巻」に描かれているように、元軍は矢の根に毒を塗った毒矢や空中で爆発する「てつはう」を使用していました。「蒙古襲来絵巻」は「てつはう」が空中で爆発してさまがよく教科書に掲載されているのですが、そう今でいうと夏にやんちゃな中・高生がやる「ロケット花火」みたいなものなんでしょうね。

 ともあれ、こうした戦いに慣れていない武士たちは大宰府までの後退を余儀なくされます。しかし、夜襲を恐れた元軍は夜になると艦船に引き揚げていました。折から大暴風がやってきて、元軍の艦船は沈没・難破してしまい、戦闘の継続は困難になりました。仕方なしに元軍は撤退しますが。日本侵攻自体をあきらめたわけではありません。これが文永の役です。

 続く弘安の役。文永の役後、幕府は非御家人に対しても異国警固番役を課して戦闘態勢を固めました。元はこの間1279年に宋を滅亡させ、日本再遠征の準備に入りました。1281年、今度は東路軍(モンゴル・高麗軍)4万人が合浦から、江南軍(宋軍)10万人が寧波から出発し、博多を攻める計画を実施しました。長期占領をめざした元は、兵士に農具を持参させていたようです。幕府は博多湾岸に築いた石塁によって東路軍の上陸を防ぎ、小舟にに乗って戦いました。そして再び大暴風雨が荒れ狂い大部分の艦船が難破・沈没しました。

 この戦いで2度も暴風雨がやってきたことから「神風」神話が誕生するのですが、すでに研究がなされているように、元軍の敗北は日本との戦いでなくてもある面で決定づけられていたように思います。というのも、一口に元軍と言っても今述べた通り他民族構成軍でした。やる気のあるのは純粋の元軍=モンゴル民族だけで、それ以外は、無理矢理動員された人たちです。しかも、日本占領後は現地で農業をしないといけない。だから農具持参なのです。誰が好きこのんでよその国で農業をしたいでしょう?とは言うものの、戦前「満州国」で農業する人たちが募集され、開拓民の名の下に移民に応じた人たちがいたのも事実ですが。

 話を戻すと、元軍の敗北の原因は、もちろん大暴風雨でしたが、今みたように他民族構成軍であったこと。強制労働で造られた艦船がもろかったこと。伝染病の発生があったことなど様々な要因がからみあって元軍は敗北せざるを得なかったと言えましょう。

 近世初頭に豊臣秀吉による文禄・慶長の役は、元寇の逆です。秀吉が朝鮮、最終的には中国の支配を夢想したのは、九州平定後のことと考えられているようです。つまり、彼は全国平定後、彼に服属した大名の軍事力を削減することもあり、朝鮮侵略を考慮し始めたらしいのです。この点で秀吉の取った方向と家康の取った方向は全く違います。家康は同じ大名の軍事力削減を参勤交代などを通じて行いました。秀吉は直接大名に軍事力を行使させ、その結果朝鮮をひいては中国を支配しようともくろんだのです。

 1592年、小西行長・加藤清正・福島正則ら約16万人の大軍が朝鮮に渡り戦いを開始します。戦いの準備ができていなかった朝鮮側は、釜山・京城・平壌と次々に占領されてしまいました。秀吉は、朝鮮侵略はたやすいと思ったのに違いありません。一説によると、中国=明を占領し、関白秀次を明の関白にし、時の後陽成天皇を北京に移し、自分は寧波に移り、インド支配を計画していたとも言います。しかし、体勢を立て直した朝鮮側は反抗に転じます。朝鮮国王の要請を受けた明も大軍を派遣しました。朝鮮水軍(海軍)の李舜臣や明の李如松の活躍でまたたくまに日本側は窮地に陥りました。戦局は膠着状態になり、休戦になります。講和のための交渉で秀吉は無理難題を突きつけます。明の皇帝の娘を日本の皇后にしたいなどという無茶苦茶の要求をし、拒否されてしまいます。

 1597年、再度出兵が行われました。小早川秀秋・毛利秀元ら約14万人が朝鮮に向かいました。この遠征は対民交渉をするための占領地確保が目的で、戦いはメインではありませんでした。しかし、明・朝鮮の連合軍に阻まれ、戦いはまたも膠着状態になります。翌1598年、秀吉が亡くなり、戦いは中止されました。

 この2度の戦いを朝鮮では壬辰倭乱・丁酉倭乱とよびます。朝鮮出兵は、様々な影響を及ぼしました。日本はこの戦いで朝鮮人の殺害数を誇示するため、耳や鼻を切り取りました。1597年の「鍋島家文書」には鼻受け取り状があり、8月21日から10月にかけて10901個の鼻を受け取ったことが記されています。また、焼き物で有名な有田焼・薩摩焼などは、この時に連行された朝鮮人陶工たちの技術があってはじめてできたものです。有田焼を伝えた李参平の名は教科書にも載っています。

 このように、戦争は他民族を滅ぼし、傷つけるものなのです。場合によってはその文化さえも奪ってしまうものです。