第30話 生活文化史(2)
古代の生活



 

 3月になりました。といってもまだまだ寒い日もあります。風邪などひかぬよう気をつけてください。「三寒四温」とはよく言いました。昨日あんなに晴れて暖かかったのに、寒くて場合によれば、「なごり雪」が降るなんてことはよくありますから。

 さて、前回の続きで、古代の生活文化史を記すことにしましょう。


 古代国家が形成されるようになると、生活の形態にも変化が生じました。聖徳太子が603年、冠位十二階を定めた時、服の色も定めらたのです。それは、どのようにかと言いますと、古墳時代は大陸文化の影響で衣は右前の着方をしていたのですが、左前に変えられ、719年には庶民に右襟を命じたそうです。

 ところで、律令体制が整備されるようになると、これまでなかった都市が作られるようになった。古代日本の都市は、「ミヤコ」とよばれる政治都市であり、それ以外の都市の造営はされませんでした。「ミヤコ」らしい都市が形成されたはじまりは「新益の京」(しんやくのみやこ)とよばれた藤原京からです。これまでの「ミヤコ」は、行政官庁は作られていたのですが、一定の区画や道路までは整備されたものではありませんでした。藤原京になってはじめて条坊制(南北を条、東西を坊で区切る)を持つ都が完成します。この藤原京には約1〜3万人の人口が集中したと推計されています。

 続く平城京も藤原京を西に2倍に広げ、上・中・下の3道路で結びつけた都が作られました。貴族たちは最低1町歩の敷地を持ち、そこに邸宅を建てて住んだのです。

 この平城京の左京3条2坊の西北4坪分にあたる場所に、長屋王の邸宅がありました。長屋王宅からは、大量の木簡が出土しており、奈良時代の貴族の暮らしぶりがかなり詳しくわかってきました。例えば、長屋王の邸宅の外部は築地で囲まれており、その内部もさらに細かく塀によって区分されていたこと。中央やや西に最大の建物があったこと。これを中心に東と西にさらに建物があり、長屋王一族がそれぞれの建物に住んでいたのだでしょうが、一族には個別に使用人がついていたようだということ。また、邸内には、手工業製品を作る工房があり、日常生活品や着物を作っていたし、馬を飼う馬司や犬を飼う犬司という飼育係もいたことがわかっています。馬は移動の際に使われるから理解ができるにしても、犬を飼うのは贅沢だとも思えます。しかも、出土した木簡から犬に米を食べさせていたことがわかっている。一方で、山上憶良の「貧窮問答歌」にあるように、庶民は米を何日も食べられず空腹をかかえていた時に、飼い犬に米を食べさせるとは何と贅沢な、という気がしてなりません。まさに「古代版お犬様」のようなものです。

 さらに、長屋王一族が何を食べていたのかも木簡からわかります。余談になるのですが、歴史学とはある面で恐ろしい学問ではないでしょうか。当の本人が死んで、しかも長屋王は悲劇の主人公と考えられた人物の日常生活が出土した木簡や、どこかに秘かに眠っていた史料で明らかになってしまうのですから。逆にこうしたある種の覗き見的なものに関心が強い私のような人間は、歴史学という学問をやれるというものなのですが。


 さて、一族の食生活に話を戻しましょう。彼らの食生活を支えたのは地方から献上された貢納品と長屋王の直轄地からの生産物が中心だったようです。米・塩・フナ・アジ・ムツ・アワビなどの魚貝類、海藻類・ミカン・クルミ、時には牛乳などが食膳に並んでいた。ウリやカブなどの漬け物もあったらようです。奈良漬けが作られる以前から粕漬けの漬け物が作られ、食べられていたのです。また、氷室(ひむろ)を作って夏には氷を食べていたこともわかっている。かなりリッチな食生活といえよう。貴族たちは、この時代唐服を身につけていました。

 長岡京を経て平安京が造営されても貴族の生活は大きな変化はありません。もちろん服装は、男の正装は衣冠・束帯、日常は直衣・狩衣となり、女は十二単を中心とする女房装束に、普段は小袿(こうちぎ) ・袴、夏は素肌に絹の布をかける軽装であり、下級官人は水旱を、庶民は小袖・直垂を着用していたようです。

 貴族の住まいは絵巻物などで知られる寝殿造りです。これは1棟1棟を湯殿・便所つきの独立の生活空間とし、その間を小室つきの渡り廊下である渡殿でつないだ建築なのです。主人は正殿としての中央の寝殿に生活し、その他の対の屋は主人と家族によって分割使用されるのです。建て方は、檜皮葺き板敷きで、ついたて・屏風などで間仕切りをし、座る時は置き畳・円座をしいたようです。もともとはシンメトリーだったらしいのですが、次第にそれがくずれ、東西のいずれかが片寄って発達するようになりました。それはある1棟を上位の座とし、形式的な整いを避けるという日本建築の性質につながっているらしいです。また、あぐらをかいて座るという生活様式と板敷き床の存在は、つながって日本の住生活の特徴となりました。だから、椅子と寝台は発達せず、片づければがらんどうになる特異な住宅様式が成立したといえます。


 貴族たちの食生活についてみると、基本的には朝・晩の2食が普通であり、主食は、蒸して食べる強飯を中心にし、それに固粥 (かたがゆ)・姫飯とよばれる今のご飯を併用していました。全体に堅く乾燥した食品が多く、刺身とか生野菜の新鮮さを味わうことはまれだったようです。それは、京都という土地柄がそうさせたともいえます。生魚はまず平安京では口にすることができません。ですから、魚肉の乾切りである「すはやり」や魚肉に酢や発酵で味をつけたすし・なますが食べられていました。

 また、仏教でいう肉食をしてはいけない風習が次第に広まり、獣肉は貴族の食膳からは姿を消しました。大目にみられたのは鳥と魚なので、天皇の正月の膳でも、ごちそうの中心は、瓜づけ・鮎料理・野鳥料理となっています。その結果、豊かな栄養をとることができず、体力が著しく低下していたのではないか、と推定されています。

 奈良時代以来、主として中国地方の公領の牧から納められていた乳製品は貴族たちにとれば頼みの綱だったのですが、納入体制の荒廃が原因してすたれていきました。ちなみにどのような乳製品があったかを紹介すると、今日のコンデンス・ミルクに近い酪、バター・チーズに近い蘇、ヨーグルトに近い醍醐があり、その納入規定は、律令・格式に定められていました。

 一方、庶民の食生活は、主食と副食がはっきりとわかれていない雑穀食だったようです。但し、獣肉を食べることは依然として続いていたでしょうし、朝・昼・晩の3食は普通だったと考えられますから、その栄養内容は貴族よりかえって良かったと言えそうです。


 平城京や平安京といった都市の民衆生活は、どのようなものだったのでしょうか。平城京内の庶民の家は下級官人の家を含めて小規模なものです。貴族の宅地に比べ、16分の1から32分の1程度であったとされています。宅地内には井戸があり、小規模な菜園もあったようです。家は大抵板葺きの平屋が1棟か2棟で、内部は板敷きか土間に藁などを敷くか、まれには高床になっていました。下級官人たちは、役人として政府から給与を与えられていましたが、京内の圧倒的多数は、京に囲い込まれた農民であり、下級官人を含む役人たちに仕えていたと考えられています。さらに、手工業者もいたと考えられています。彼らの食生活は極めて質素で、米と塩が主体で、他に海藻類と野菜が加われば良い方だったようです。

 平城京内に住んでいた人たちがどれくらいだったかについては、推計で20万人ともいわれているのですが、論者によって、10万、14万といもいわれ、具体的にははっきりわかりません。しかし、10万にせよ20万にせよこれだけの人々が京内に住んでいると、当然問題になるのは排泄物(屎尿)をどうしたか、ということとゴミの問題です。

 トイレについては、近年発掘調査が進み、かなりのことがわかってきた。実際、子どもたちを発掘現場につれていくと、「トイレはどこにあったの?」という質問をするそうです。子どもたちにすれば、何気ない質問なのだが、学者は意表をつかれて、答えに窮してしまうようです。縄文や弥生時代のトイレはどこにあったかなどという研究は、これまでなされていなかったからです。

 唯一わかる例として、縄文時代の遺跡で福井県に鳥浜遺跡があり、ここからは糞石(大昔の人糞の固まり)が見つかって、木の杭を板にして便所にしていた可能性があることがわかりました。また、1992年にかつての藤原京内でトイレが発掘されました。それは、両端が丸く南北方向に長い穴(1,6b×0,5b、深さ約1b)だったようです。穴の両端寄りには2本ずつの杭(南北85、東西30p間隔)が打ち込んでありました。これが藤原京で発掘されたトイレなのです。

 その穴にはトイレの後始末に使用したチュウ木(長さ約18p、幅約1p、厚さ約4o)や瓜の種子が堆積していたそうです。この土を取って分析すると、昆虫(ウジ虫などトイレにかかわる虫とトイレ近くにいた糞虫など)や魚骨・寄生虫の卵の化石などが見つかったそうです。魚の骨は人々が食べていたものが消化仕切れずに排出されたものだろうし、寄生虫の卵は、当時の人たちの体内に寄生虫がいたことがわかります。回虫・鞭虫などは生の植物を口にすることから人体に入るし、肝吸虫は、魚を生で食べると人体に入ります。こういうことがわかったのですが、なんと藤原京内のトイレは今流にいえば水洗便所だったようです。

 平城京内のトイレについては『西大寺資財流記帳』という文献に記されている。そこには「瓦葺厠(かわらぶきかわや)長6丈4尺5寸広1丈2尺」とあります。瓦葺きで長さ20b弱、幅3,6bの長いトイレがあったというのです。トイレの中が壁で仕切られていたかどうかはわかりませんが、20人位の共同便所であったようです。しかも、川や溝にまたがった建物だったようですから、水洗便所だったと考えられます。なお、トイレの掃除に関する取り決めも養老令や延喜式にあり、いずれも犯罪を犯した囚人たちがトイレ掃除をさせられたようです。


 一方ゴミ処理は、なかなか進まなかったようです。当時のゴミ処理は大路小路の側溝に捨てるか、ゴミ捨て穴を掘って埋めるかでした。だからほっておけば、都の側溝のゴミは堆積してしまいます。側溝は都に住む庶民の雑徭によって掃除されることになっていたのですが、律令体制が次第に動揺しはじめるとどれだけ掃除が行き届いたのかは疑問です。だから、一度疫病がはやるとまたたくまに広がったことはいうまでもありません。

 都市に住む貴族や庶民の生活とは別に、村に住む人々の生活はどのようなものだったのだでしょうか。まず、古代の村は、いくつかの集落に分かれながら、耕地や灌漑、山野の用益などを共同にし、農耕儀礼を共にする集団と考えられています。律令体制では50戸=1里とされていますが、これはあくまで権力側がとらえていたものであり、実態とは異なる場合が多かったようです。家族についても正倉院に残された戸籍がありますが、古代の家族は、今の我々のようなものとは異なっています。

 古代の村は谷の水を利用した水田耕作が一般的であった関係で、台地とその周辺部に集落を形成していました。おそらく奈良・平安時代共に大きな変化はなかったと考えられています。住居は竪穴住居ないしは掘建柱住居だったようです。村では農業が営まれていただけではありません。海岸や湖の近くの村では当然漁業をしていたでしょうし、山村部では鹿・イノシシなどの狩猟も行われていました。都から離れた村にも律令政府は税負担をするように命じていたから、各地の特産物をはじめ、租・庸・調などの税を納入しなければならなかったのです。

 私が調べた内容は、この通りですが、どうですみなさん。前回記したように、1度自分が住んでいる都市・町・村の歴史を市町村史などで調べてみては如何でしょうか。意外なことがたくさん発見できると思います。

 最後に、今あえて付け加えなくてもいいのですが、長い間生活してきた町や村がなくなろうとしています。市町村合併=平成の大合併が進行しています。果たしてそれでいいのでしょうか。広域合併で、住みやすくなると言われているのですが、面積が広くなるということは、そこに住む住民のサービスが低下することにつながっていくはずです。何故なら、合併後の新しい町や市は、職員を増やしてサービス低下を防ぐなどと言ってはいないからです。現在ある様々なサービスを維持することはおそらくできないでしょう。

 古代以来私たちの祖先が築き上げてきた歴史を崩してしまうような市町村合併とは一体何なのでしょうか。本当に住民のためになる合併だとどうも思えないのが私の正直な感想です。地方自治体が抱える借金を帳消しにするために先行する市町村合併のあり方は、あちこちで破綻しはじめています。こんなこともこうしたテーマから考えられることです。