第35回:韓国の近現代史に触れてきました

はじめに

 去る3月26日から29日までの日程で、韓国に行ってきました。これは、立命館大学の国際共同研究のプロジェクトに私が加えてもらい実現したものです。ここ数年、春と夏にベトナムに行っていた私にとって韓国は文字通り「近くて遠い国」でした。一般の旅行書一冊を買ったものの、ほとんど読みもせず、「まぁ〜何とかなるやろう」で行ったものの、今回の旅も非常に重いものとなりました。

 関西空港から約2時間で、仁川国際空港に到着する近さの国である韓国。日本と時差もなく、ほんとに近い国で、皆さんご存知のとおり、今「韓流ブーム」で、日本人観光客がその近さもあって行っている国です。ソウルの屋台のようなお店では、例のヨン様人気にあやかってか、男性用の「ヨン様靴下」が売っていました。

 私が行った時のソウルの気温は、丁度寒波の戻りの時期だったせいか、3〜5度くらい。風が非常に強く、雨や雪は降らなかったのですが、ともかく寒く、日本以上に寒いような気がしました。それに加えて中国大陸からもたらされる黄砂で、かすんでいました。


1.私の勘違い――理解不足――

 韓国について、旅行書一冊をまともに読まず、とりあえずの気分で行って、色々と自分の勘違いと言うより、まさに理解不足だった一番のことは、何より韓国経済の発展を理解していなかったことでしょう。私にすれば、ベトナム・カンボジアの経験しかありません。こと経済に関して言うと、韓国経済を開発途上国経済と同じ程度にしか理解できていなかったということです。確かに韓国が、経済発展を遂げ、ソウルオリンピックをやり遂げたことは理解していても、それはまさに表面的な理解でしかありませんでした。何が言いたいのかと言いますと、韓国の物価が安いなどという勘違いをしていたのです、2002年6月現在で100ウォンは日本円で約10円と記された記述もあり、日本の10分の1というのですが、それだけの理解では、全く理解ができていないことと同じでした。

 ホテルに着いてすぐ、1万円札をウォンに両替して、7万8000いくらかのウォンに換えました。何しろ外国と言えば、ベトナム・カンボジアしか経験がなく、頭がベトナム仕様ですから、これで2日くらいは過ごせるだろうと思っていたら、何と2時間も経たない間に、皆さんと行った夕食代(一緒に行った学生たちは迷惑がかからない程度に払い、教員連中が大きな額を割り勘するといういつものやり方をとったのですが)が払いきれず、最初から、借金をする始末でした。この時点で、もうびっくりしてしまいました。

 翌日、両替のレートがいい所を紹介してもらったのですが、これが何と街の中にある鍵屋さんの片隅。その次の日の両替は、これまた街の酒屋さんの片隅。これにもびっくりです。だって、日本じゃ到底考えられないでしょう。鍵屋さんなんてとっても無愛想で、何かぶす〜っとしたおばちゃんが、1万円札出すと、「ほらよっ」という調子でウォンに換えてくれるだけでした。鍵屋さん、酒屋さんともレートは1万円に対して8万3000ウォンでした。ホテルのレートより高いわけです。

 極めつけは、29日の朝、南大門近くの土産物市場での両替。店の片隅などまだまし。街頭に寒そうに腰掛けているおばちゃんたちが両替商です。ダンボールを上手に机のようにして腰掛に座っていました。レートは1万円に対して8万2000ウォン。前日よりレートが変わっていましたから、1000ウォン分円安でした。ちなみに両替のおばちゃんはたくさんいて、どのおばちゃんでも、8万2000ウォンでした。果たしておばちゃんたちの仕事は、公的に認められているのか、闇なのかわかりませんし、両替でどれくらい儲かるのかわかりません。また、おばちゃんたちが大量に持っていたウォン札は、誰がどこからどのように手配しているのかもわかりません。

 このあたりのアバウトさが韓国だと言ってしまえば、それまでです。ともかく、私は物価が安いという気はしませんでした。それだけ韓国経済が発達しているのですが、こういうことは、実際に体験してみないとわからないことです。大変いい勉強になりました。本を読んで、100ウォンは約10円と理解していても、決してわからないことでしょうから。

それだけ、韓国経済の発達は著しいというべきで、日本だけが先進国だなんて思っていたら大変な誤りをしていることになるでしょう。


2.国立民俗博物館(The National Folk Museum of Korea)

 27日、私たちは景福宮を見学しました。ここには1996年まで、旧大日本帝国の朝鮮支配の中心機関であった朝鮮総督府の建物(1945年以後96年までは、国立中央博物館として利用されていました)があったのですが、現在は、撤去され、景福宮が復元されています。この王宮は、非常に広く、時間の関係もあり、駆け足で見なければならなかった私たちは、当時の面影を偲ぶというわけにはいきませんでした。

ところで、景福宮の敷地内にある国立民俗博物館に行くこともできました。そこもじっくりと見ることができなかったのですが、なかなか見所のある博物館でした。韓国の人々の生活が理解できるような展示物(ジオラマ形式=人形を使って本物そっくりに見えるような展示)がたくさんあって、なかなか楽しい博物館でした。なかでも、韓国と言ったら「キムチ」と条件反射風に答えが返ってきそうなほど有名過ぎるキムチを漬ける人形たちの様子は、楽しいものでした。この博物館の隣には子供博物館があり、子ども史などということに興味がある私としては是非見学したかったのですが、行けないままで終わってしまいました。おそらく、韓国の子どもたちの遊びや生活がわかる展示がなされていると思うので、もう一度韓国に行く機会があれば、真っ先に行ってみたいところです。行くことができなかったので、私はこの博物館で「昔の韓国」という絵葉書のセットを購入しました。4000ウォンですから、お手頃価格でしたし、何よりも絵が楽しいのです。マンガのような絵で当時の人々や子どもたちの遊んでいる姿が描かれています。

 先ほど記したキムチづくりのおばさんたちの絵もありますが、子どもたちの絵としては、コマ回し・ブランコ・カゴメカゴメのようにして踊る姿・シーソー・凧揚げの5種類の絵が描かれています。それぞれの絵の説明があって、例えば凧揚げは韓国の子どもたちのお気に入りのスポーツだと説明があります。

この凧揚げという遊びは、世界中の子どもたちの遊びなのでしょうね。日本では、最近あまり見かけなくなりましたが、それでも、お正月前になるとおもちゃ屋さんなどで「○○カイト」が売ってあるのを見かけることがあります。そういえば、昨年夏訪れたベトナムのフエ王宮で凧揚げしている子どもを見ました。私などお正月イコール凧揚げという固定観念がありますので、夏の暑い日に凧揚げしている子どもを見てすごく新鮮な気持ちになりました。

 絵葉書のコマ回しに使われているコマは、日本で一般的に見られるヒモをコマにかけて回すものではなく、叩きゴマ(こんな言い方をするのかどうかよくわかりませんが)のようです。
凧揚げ(国立民俗博物館で売っていた絵葉書より)

この説明をするために、絵葉書を見ていて、何だかとても懐かしい気分になりました。私の幼い頃(私にだってガキの頃はありました!!)ある日突然、父がコマを作ってやると言い出し、作って回してくれたコマがこの絵と同じコマだった気がします。韓国のものが先か日本が先かといった細かでつまらない詮索はなしにして、子どもたちが楽しそうに遊んでいる姿を見ることが一番いいことなのでしょうね。民俗学というのは、こういう比較であるとか、共通点を見出し、影響を考えたりすることに大きな関心を持っている学問です。そういえば、民俗学の大家・柳田国男にも子どもの遊びを記した著作があったよね。なんてことを思い出しました。
こま回し(国立民俗博物館で売っていた絵葉書より)



3.戦争記念館(The War Memorial of Korea)

 翌28日、私たちは、戦争記念館と西大門刑務所歴史館に行きました。戦争記念館は、米軍基地に向かいあっています。韓国も日本と同様米軍基地が存在します。この記念館は、韓国がこれまで体験したすべての戦争に関して扱い、展示した場所です。古代の戦争から始まり、現代までを見ることが可能なのですが、わずかな時間ですべてを見ることはできませんでした。時間をかけてじっくり見る必要があると思います。圧巻だったのは、やはり、朝鮮戦争(韓国では韓国戦争と言います)のコーナーでした。建物の2階全部と3階の一部がそれに当てられ、当時の避難民の様子(ジオラマで当時の様子を紹介しています)や、ビデオなどを見ることができました。

現在でこそ朝鮮戦争のきっかけについては、高校日本史教科書でも「南北分断状態となった朝鮮半島では、1950年6月、中国革命の成功に触発された北朝鮮が、武力統一をめざして北緯38度線を越えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争がはじまった」(山川出版社『詳説日本史B』358p)と記されていますが、この点については、長い間日本では、どちらが最初のきっかけを作ったかわからない、あるいは韓国側がきっかけを作ったように理解していました。おそらく、このことだけでも史学史(歴史学の歴史)的に追いかけ、これに関する論文を書くことも可能だと思います。つまり、一体いつ、誰が朝鮮戦争の原因を不確かなものとして記述しはじめ、その根拠とした史料は何だったのかということや、それがどのような経緯を経て訂正されるに至ったのかを丁寧に追っていく作業です。

韓国の人々は、実体験としてこの戦争を経験したわけですから、高校日本史の記述以外の理解はあり得ないことでした。ちなみに記念館で購入した『戦争記念館―護国の殿堂―』というパンフレットでは、その20ページで、次のように記しています。少し長くなりますが、そのまま引用してみましょう。

「1945年8月15日、第2次世界大戦の終戦とともに韓国は日帝の植民統治から解放されたが、アメリカ軍とソ連軍が北緯38度線を境に韓半島に進駐することによって、国土と民族が分かれる悲運を迎えることになった。北朝鮮は解放直後から韓半島を共産化しようと、国連と韓国の統一政府樹立の努力を様々な策略で妨害し、軍事力を大々的に増強しつつ韓国侵略の有利な機会を醸成するため度重なる挑発をしかけた。すなわち大邱、済州道の暴動事件や麗水・順天事件のような乱策動や甕津・開城・春川など38度線上での軍事的挑発を繰り返し、戦争の準備が完了すると中国・ソ連の支援を受け、’50年6月25日、日曜日の明け方4時にソ連製T-34戦車を先頭に38度線全域にかけ奇襲攻撃を開始し、韓国戦争が勃発したのである」

と記されています。先に引用した高校日本史の記述は、今の引用をより簡単にまとめて記したものだということがわかります。日本人の私たちにとって、どっちがきっかけをつくたって大差ないなどと思っては歴史に対する冒涜です。実際、何千・何万もの人々が傷つき、避難生活を余儀なくされたのですから、「どっちもどっち論」ですませるわけにはいかないのです。また、この文を読んで初めて、戦争勃発の日50年6月25日が日曜日だったことを知りました。日曜日です。久しぶりの休み。ほっとしてゆっくり遅くまで眠り…‥という日曜日にはならなかったのです。早朝4時から戦争が開始され、人々は避難することになりました。


4.西大門刑務所歴史館

 28日、もう一つの見学場所、西大門刑務所歴史館も見学した後、重い気分になりました。現在は刑務所として利用されていませんが、比較的最近まで刑務所として使用されていたそうです。この刑務所は、1908年京城監獄として作られ、1912年に西大門監獄と名を改めました。歴史を知っている人ならすぐわかるように、日本は1910年から大韓帝国を植民地にしたのでした。この刑務所に入れられた人々は、日本の植民地支配に抵抗した人たちでした。朝鮮戦争後、国内が次第に落ち着きをみせてからも、政治犯が収容された刑務所だったようです。

歴史館では、彼らが獄中でどのような弾圧を受けたかを体験するコーナーもありました。仲間の居場所などを「吐かせる」ために拷問をしている様子を見ることができるようになっていたり―爪に千枚通しのようなものを突き刺したりする官憲と抵抗運動の人の人形がありました―以前利用されていた死刑場が見ることができました。死刑場など見たことが私は狼狽してしまいました。今はどうなのか知りませんが、刑務所の死刑場で見た限りで言うと、絞首刑でした。

 しかし、私にとって一番印象に残った施設は、ハンセン病患者になった囚人の施設でした。抵抗運動に対する拷問や弾圧などはもちろん重い意味を持っているのですが、刑務所にも避病舎のような施設があり、ハンセン病に罹った囚人たちを隔離していたことが理解できたからです。ハンセン病に罹った囚人たちに対してどれほどの治療がなされたのでしょうか。抵抗運動の関係者で、囚人となり、ハンセン病に罹った人々にきちんとした治療が施されたとは到底考えられません。韓国のハンセン病患者に関する研究は進んでいますが、よもやこんな所でハンセン病患者の施設を見るとは思ってもいないことでした。


らい病舎

死刑場



おわりに

 そもそも、今回の韓国への旅は、アジアの国々の人々と障害児(韓国では「障碍」が漢字表記されていました)教育シンポジュウムをするための下交渉をし、名門の梨花女子大学にあるいくつかの施設を見学することがメインでした。しかし、今回はそのことを具体的に記す前に、日本と韓国の近現代史の違いの方に関心がいってしまいました。

 韓国は、経済的に大きく発達を遂げ、アジアの先進国の1つと考えても良いでしょうし、それだけの実力がある国でしょう。また、政治もかつての軍事政権とは異なり、民主的な政治が行われています。今回訪れた場所が旧大日本帝国による支配に関係する所が多かったことで、本来、日本近現代史を学んでいる私にとって学ぶものが多かったと言えるでしょう。

 旅行中に今回一緒に行った方たちと話したことですが、日本史研究者は、日本のみで考えるのではなく、日本史と関係のあった国々に行ってみる必要があるのではなかろうか、と思うようになりました。私が感じる程度のことはもう誰もがわかっていて、当たり前になっているのなら、何ら問題はありません。仏教にしろ、法律にせよ中国や朝鮮を経由して日本にもたらされ、日本で独自のものになっていき、根付いていったものがたくさんあります。ルーツ探しだけが良いなどとは言いませんが、何を学び(何を受け取り)、どのように日本化していったのか、といったことやそれぞれの国々との関係や人と人との関係は、モノの流れは、といったことを考える際に、外国に行くことによって得られることは多いと思います。